仏教で全ての精神的な病気が治る、という訳ではありません。当然ながら、ひどい状態の方は専門の病院に行かなければいけません。
しかし私達の日常生活の中でも、嫌だったこと、失敗したことなどを思い出して、落ち込んで次の一歩が踏み出せない時や、緊張してパニックになってしまう時があるのです。この様な「ちょっとした心の病」は、放っておくと本当の病気になってしまいます。仏教では私達の心の中に潜む「ちょっとした心の病」の治療をお勧めするのです。それは私たち自分自身で出来る治療です。
落ち込んでいる時の自分の心を観察してみましょう。過去の嫌なことを、自分で一生懸命思い出していませんか。未来の不安を必死に考えて、悩みを作っていませんか。それは自分で自分の首を絞めるのと同じでしょう?この苦しみの原因は、単なる曖昧な記憶や勝手な思い込み、漠然とした不安などです。それを「妄想」と呼びます。「今という現実」に苦しみの原因があるのではない、ということが重要なポイントです。人間は反芻動物ではありませんので、過去の出来事を繰り返し思い出したり、未来の不安を何度も想像したりすると苦しくなります。何度も反芻して味わうと、段々気持ち悪くなって、本当の病気になってしまうのです。
そこで仏教では、「反芻」を止めて、「今という現実」に生きる事が自分の幸せにつながります、と説くのです。
まず「反芻」を止めるためには、自分は今「妄想」をしていることに気付くことが大切です。妄想は、現実性のない、結論の出ない思考のことです。「妄想」をしていることに気付いたら、次に「今という現実」に戻ることが出来るようになります。では、「今という現実」とは、どのようなものでしょうか?
お茶を飲むことを例にして考えてみましょう。
お茶を飲むということは、湯飲みの場所を見る、手を伸ばす、湯飲みを掴む、口まで運ぶ、口を開ける、飲む、湯飲みを戻す、という一連の行為です。このことに気づきながらお茶を飲むことが、お茶を飲む、ということになるのです。皆様は、お茶を飲んだことはありましたか?
このことに気付きながら飲んでいなかったとなると、何をしながらお茶を飲んでいたのでしょうか?あれが格好良い、欲しいという欲に関することを考えていたのかもしれませんね。あれはキモイ、ウザイという怒りに関することを考えていたのかもしれません。あるいは無意識に、という方もいるでしょう。それは、今に気付いていない、無知に属する放心状態です。
このように、私達は一日起きて生活している時間も、実は他のことを考えている時が多いのです。それでは夢の中で生活しているようなものです。幸せに向かおうと思っても、目隠しをして歩いているようなものです。
その問題を打ち破る唯一の方法が、お釈迦様のヴィパッサナー瞑想の実践です。「妄想の反芻」をせずに、「今という現実」を生きるために、常に自分の行動や思考を観察して「感覚の実況中継」をするのです。そうすると生きるということは、歩く、立つ、座る、横たわる、伸ばす、曲げる、まわすといった、実にシンプルな世界であることが見えてきます。
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