釈尊に学ぶ「今を生きる智慧」〜寺子屋三宝庵〜
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妄想対策













自己評価があるということは、自分のことを大切に思っているということです。自分に対する評価を他人に下してもらうのでは、あまりにも自信がなさ過ぎます。私達は、他人に良く見てもらうために、生きているのではありません。それでは、自分の欲を徹底的に叶える、怒りを正当化する、傍若無人で無知に生きるということが、自分を大切にするということでしょうか?

私達が堂々と生きるために必要なのは、生命としてのプライドです。地位や財産、名声や権力などは、死と共に失うのです。最終的に失う目標を求めて生きるのでは、寂しい人生になります。そうではなくて、完全な人格を作ろうではないか、苦しみを全て乗り越えようではないか、悟ろうではないか、というスケールの大きな、高い希望を持って生きてもらいたいのです。

その高い希望を叶えるために生きると、欲や怒りに振り回されない、生命としてプライドのある人生が見えてくるのです。それが自分を大切にする生き方です。


この様に、スケールの大きなプライドを持つ事に自己評価の基準を設定すると、どんな困難にも立ち向かっていける勇気が出てくるのです。



いじめてくる人、暴力をふるう人、虐待をする人、これらの人は完全に人間以下の生命なのです。人間以下の生命に、私の心は微かにも傷付ける事は出来ません、と、自分の心の中にだけでも「勇気」を持って頂きたいのです。

悩みは一人で抱えずに、お気軽にご相談下さい。仏教ではどのように考えて、どのように乗り越えていくのかを、私に出来る限り、お答えさせて頂きます。共にお釈迦様の智慧を学んで、正しい判断力を養い、優しくて頼りになる人間になっていきましょう。



怒るには原因があります。その原因は、外の対象にあるのでしょうか?それとも自分の心に原因があるのでしょうか?世の中の人の思考は、怒りの原因は絶対に外の対象にある、となっています。自分は悪くないのです、という態度です。あの人は、自分のことを馬鹿にした、侮辱した、差別したと、怒りの原因を外に作るのです。

しかし仏教では、怒るのはその人自身の心に問題があるのです、という立場です。

例えば「お前馬鹿だなぁ」という言葉があります。この言葉に、怒りを生み出す力があるならば、この言葉を聞いた人は、必ず腹が立つはずなのです。しかし、その言葉を聞く自分の状況によって、腹が立ったり、褒め言葉として捉えたりと、色々な心の状態が生まれるのです。

人の行動を見て腹が立つ場合も、ある時は腹が立ち、ある時は良いことをしていると思うこともあるのです。人殺しは絶対に許さないという人が、死刑の判決は良いことである、とまじめに言う場合があります。人の命が亡くなる、という点では同じことであっても状況によって、許されない怒りがこみ上げる場合と、当然の報いであると納得する場合があるのです。

同じことが起こっても、自分の心の状況によって受け取り方は変化する、ということですね。


ここで大切なのは、自分の心の状況を常にコントロールすることが、怒りを生み出さないことになる、ということです。


自分の心をコントロールするためには、冷静な自己観察能力がものをいうのです。例えば人に嫌なことを言われている時には「音・音・音」と頭の中で繰り返し言って、自分の耳に触れている音を観察するのです。そうすると、頭の中に嫌な言葉は入ってきませんし、元々音は、生まれた次の瞬間に消えてなくなるものであるということに気付くのです。瞬間に消えてしまっている音を、わざわざ頭の中に取り込んでリピートしてしまうと、腹が立つのです。音は瞬間に消えてしまうものですから、嫌な気持ちも瞬間で消してしまいましょう、と、冷静に観察しながら自分に言い聞かせて下さい。

人に叩かれた時は、すぐに怒るのではなく「痛み・痛み・痛み」と心の中で言いながら、痛みを観察するのです。
自分が誰かに叩かれた、と考える前に冷静に痛みを観察すると、「生きているから、痛みがありますねぇ」と、自然に笑顔さえ出てくる可能性があるのです。



お金はいくらあってもよい、と思いますよね。お金だけでなく衣食住といわれる、洋服、食べ物、住む所は、希望を言えばキリがありません。今持っているモノよりも良いモノが、必ずあるのですから、より良いモノを求め続けるのが当然ですね。しかし、それで悩んだり、困ったり、落ち込んだりするのです。それでは、私たちを困らせる原因は、モノにあるのでしょうか?それとも私達の心にあるのでしょうか?答えは誰でも知っていますね。モノは悪くないのです。問題は私達の心にあります。良いモノを探し続ける生き方は、モノを手に入れるために奴隷のように生きましょう、という感じです。

しかしお金もモノもあくまでも道具です。道具を手に入れるために生きるのではなく、生きていくために必要な道具だけあれば良いという気持ちで生きることを仏教では勧めるのです。そういう生き方をするためには、これは生きていく上で本当に必要かどうかと、客観的に確認する観察力が必要なのです。そうして、モノに振り回されない人生の主人公として、自分自身の心をしっかりと守る生き方が、少欲知足の生き方です。



私達は、人と人とのつながりの中で生きています。そして、この「人」との関係で、問題が起こるのです。しかし人の中で生きているのですから、問題があって当たり前、とも言えますね。
慈悲の瞑想で一番最初に祈るのは自分の幸せでしたね。自分の心は大切なのです。それは、わがままを通して当たり前、という意味ではなく、自分の心は大切に育てていかなければならないという事です。立派な人物からはどんどん学び、ろくでもない人物からは、僅かにでも影響は受けないぞ、という強い意志が必要です。

しかしここに問題があります。
どの人が立派で、どの人がろくでもないかを見分ける能力が必要である、ということです。その能力がないと大変で、本人の性格により、ろくでもない方に行ってしまう可能性があるのです。それではどうしたら良い人生を歩めるようになるのでしょうか?

結論から言えば、自分で確かめてみるしかないのです。しかしその時には、言いなりになるのでもなく、初めから拒絶するのでもない、疑い深い知識人でなければなりません。見る目がなくて、ろくでもない人と付き合えば、自分が必ず不幸になりますのですぐ分かるのです。

立派な人と付き合えば、自分の幸福は自分で手に入れるものであるという自信が得られるので、どのような状況でも明るく元気に生きていられるようになります。ですから、立派な人を見つけてその人と離れずに人生を歩むならば、必ず幸せになるのです。
こうして幸福な人生を歩み始めた人は、自分だけが良ければいいという思考からも、自分は犠牲になってもいいという思考からも離れます。それが人間関係における中道で、自分にとっても、相手にとっても、全ての生命にとっても役に立つ道を歩もうと努力するようになるのです。



仏教で全ての精神的な病気が治る、という訳ではありません。当然ながら、ひどい状態の方は専門の病院に行かなければいけません。

しかし私達の日常生活の中でも、嫌だったこと、失敗したことなどを思い出して、落ち込んで次の一歩が踏み出せない時や、緊張してパニックになってしまう時があるのです。この様な「ちょっとした心の病」は、放っておくと本当の病気になってしまいます。仏教では私達の心の中に潜む「ちょっとした心の病」の治療をお勧めするのです。それは私たち自分自身で出来る治療です。

落ち込んでいる時の自分の心を観察してみましょう。過去の嫌なことを、自分で一生懸命思い出していませんか。未来の不安を必死に考えて、悩みを作っていませんか。それは自分で自分の首を絞めるのと同じでしょう?この苦しみの原因は、単なる曖昧な記憶や勝手な思い込み、漠然とした不安などです。それを「妄想」と呼びます。「今という現実」に苦しみの原因があるのではない、ということが重要なポイントです。人間は反芻動物ではありませんので、過去の出来事を繰り返し思い出したり、未来の不安を何度も想像したりすると苦しくなります。何度も反芻して味わうと、段々気持ち悪くなって、本当の病気になってしまうのです。


そこで仏教では、「反芻」を止めて、「今という現実」に生きる事が自分の幸せにつながります、と説くのです。

まず「反芻」を止めるためには、自分は今「妄想」をしていることに気付くことが大切です。妄想は、現実性のない、結論の出ない思考のことです。「妄想」をしていることに気付いたら、次に「今という現実」に戻ることが出来るようになります。では、「今という現実」とは、どのようなものでしょうか?

お茶を飲むことを例にして考えてみましょう。


お茶を飲むということは、湯飲みの場所を見る、手を伸ばす、湯飲みを掴む、口まで運ぶ、口を開ける、飲む、湯飲みを戻す、という一連の行為です。このことに気づきながらお茶を飲むことが、お茶を飲む、ということになるのです。皆様は、お茶を飲んだことはありましたか?

このことに気付きながら飲んでいなかったとなると、何をしながらお茶を飲んでいたのでしょうか?あれが格好良い、欲しいという欲に関することを考えていたのかもしれませんね。あれはキモイ、ウザイという怒りに関することを考えていたのかもしれません。あるいは無意識に、という方もいるでしょう。それは、今に気付いていない、無知に属する放心状態です。

このように、私達は一日起きて生活している時間も、実は他のことを考えている時が多いのです。それでは夢の中で生活しているようなものです。幸せに向かおうと思っても、目隠しをして歩いているようなものです。

その問題を打ち破る唯一の方法が、お釈迦様のヴィパッサナー瞑想の実践です。「妄想の反芻」をせずに、「今という現実」を生きるために、常に自分の行動や思考を観察して「感覚の実況中継」をするのです。そうすると生きるということは、歩く、立つ、座る、横たわる、伸ばす、曲げる、まわすといった、実にシンプルな世界であることが見えてきます。



「一日を生きる」ということを詳しく観察すると、瞬間瞬間に問題が生まれ、それを解決している生命活動が見えてきます。呼吸、食事、排泄、服を脱いだり着たりすること、どこかに行くこと、痒い所を掻くことなど、常に問題があり、それを一つ一つ解決しているのが人生である、といえそうですね。ですから、いつも問題にぶつかっている私たちは、問題にぶつかり慣れていないといけません。お腹がすいたけど、食べるのは面倒だからあきらめよう、ということになると、生きてはいけません。息を吸っては吐く行為にも、もう面倒臭いからやめよう、とは言えないのです。このように、問題にぶつかってはクリアをすることに本来は慣れている私達なのですから、どんな大きな問題に出会っても「どんなモンダイ」と冗談を言えるくらい、明るく元気でいた方が良いのです。

しかし現実には、問題が起こると、元気がなくなって、悩んでしまうのです。
その悩み苦しみを生み出す原因は思考にあります。好き、嫌い、こうなって欲しい、ああならないで欲しい、どうしてこうならないのだ、なぜ私だけ、と思考によって悩みが生まれます。
その様な訳で、思考は汚物として捨ててしまうのが、明るく生きるために必要なことなのです。そのために、ヴィパッサナー瞑想の実践では、自分の感覚を実況中継するのです。そうして、今しなければならないことを、淡々と楽しみながらするのです。

また、自分は今日一日の命かもしれません、と考える死随観や、自分の身体は皮膚一枚めくったら、とんでもなくおぞましいものである、と考える不浄観も、明るく生きる原動力になります。誰でもいつ死ぬかは分かりません。また皮膚一枚めくったらお化けみたいになる、ということも事実なのです。ですから死随観や不浄観は「妄想」という事ではなく、現実の確認作業です。この様に現実を見つめると、今日死ぬならば出来る限り頑張ってみようではないかと「火事場の馬鹿力」が出るのです。皮膚一枚めくったら化け物みたいになる私ですが、親しくしてくれる人がいるので、その人のために頑張って生きてみます、という事になるのです。
もっとシンプルに、瞬間的に明るくなる方法は、「背筋をピンと伸ばす」事です。胸を反って伸ばすのではなく、まず腰を固定して、腰骨から上へと背骨を一つ一つ丁寧に真っ直ぐそろえていくのです。そうすると頭も気分も爽快になるはずです。

苦しみを与え、私達の言うことを聞かないこの身体は「私」のものではなく、原因によって生まれ、瞬間瞬間に変化し、条件によって組み立てられた「はかない」ものです。しかしこの身体を使って仏教の教えを理解し、ヴィパッサナー瞑想を実践することによって智慧が生まれ、悟りへと至るのです。そのためには、正しい仏教を学ぶこと、正しい瞑想方法を学ぶことが大切です。ヴィパッサナー瞑想はシンプルな瞑想方法です。その形態は、ストップモーション、スローモーション、歩く瞑想、立つ瞑想、座る瞑想、ただこれだけです。

正しい仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想の実践をしたい方は、初期仏教のスマナサーラ長老に直接ご指導を受けられることを強くお勧め致します。

なお、スマナサーラ長老の瞑想指導の日程等につきましては、日本テーラワーダ仏教協会のホームページをご確認下さい。

また、私の勉強会でもよろしければ、日程調整の上で、どこへでも伺いたく思っております。お気軽にお声をお掛け下さい。

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