釈尊に学ぶ「今を生きる智慧」~寺子屋三宝庵~
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仏教・密教









お釈迦様の説かれた「仏教」と日本に伝わっている「大乗仏教」とではその教えにかなりの隔たりがあると言えます。
仏教の根本であります釈尊仏教は「瞑想実践」こそが命ですが大乗仏教には「信仰」や「祈祷」が強く見られるようになっています。大乗仏教をいくつかの信仰段階に分類し最後に釈尊仏教を紹介しています。












何もかも上手く行かない世の中。
何とか助けてもらいたくて、仏様や祈祷師の法力・霊感に頼る。
これが多くの方の信仰のきっかけではないでしょうか。
この何かに頼ろうとする信仰は「お助け型信仰」と呼べると思います。



次に「お預け型信仰」があります。
「お預け型信仰」では、一度神様や仏様に上手く行く様に頼んだ「お願い事」は、二度と口に出すことも、思い悩むこともしないと決心します。
完全に神仏にお任せしてしまうのです。
その上で、自分に出来る最高の努力をする信仰態度です。
当然なことですが、この信仰の人々には、自分を見守り続けてくれる絶対的に信頼出来る神様や仏様の存在が必要不可欠です。



神様や仏様は願いを叶えてもらう対象ではなく、自分が目標とする人格のモデル、雛型とする「お手本型信仰」をしている人々もいます。
日本の大乗仏教(密教)に登場する様々な神仏がそのモデル対象となり得ます。
例えば千手観音はあの手この手で人々を正しい道に導く人間になるためのお手本として信仰されます。不動明王は自分の不動心を見失わないために信仰します。

慈母観音は生きとし生けるものの母親になろうという決心を持つために、虚空蔵菩薩は青空のように自由自在で、何物にも執着しない心になるために信仰するのです。
聖天さんは自分一人の欲にとどまらず、世の中を良くする大きな欲を持つために信仰されます。


人格のお手本となるような人物はは、なかなか実社会では見つかりませんね。大乗仏教(密教)に登場する神仏を目標とすればこれ以上のお手本はない訳です。しかし神仏の性格を自分で解釈してしまうと、意見の相違を生み、争いを引き起こす可能性があります。

これまでに見てきた「信仰」とは異なり、お釈迦様のお教えは「観察型瞑想」です。この観察瞑想では、何か見えない力に頼ることはしません。今の瞬間に起こっている自分自身の身体感覚を刻々と観察するのです。また、自分の主観や感情も客観的に観察する対象にします。これが今を生きることに集中させて「智慧」を生み出します。非科学的なことは信じないという現代人には、これこそが相応しい教えといえるでしょう。

観察と同時に、生きとし生けるものへの「感謝と慈悲」の気持ちも育てます。その上で、自分を含めた万物が瞬間瞬間変化消滅する「無常」を観察します。この「無常」は、「苦しみ・不満」を生み出します。また、永遠不滅の実体はないという「無我」を観察することにもなります。この「観察型瞑想」は、「ヴィパッサナー瞑想」と呼ばれ、私は初期仏教のスマナサーラ長老のご指導を受けています。



この世の中を見て下さい。格差が広がり、貧困や飢えで苦しむ人がいます。予想さえもしていなかった病気になって悩んでいる人がいて、大切な人と死に別れて悲しむ人がいます。私達の周りには、不幸が多いのです。これでは、今幸福だからといって安心は出来ませんね。いつ不幸のどん底に落とされるかは、分かったものではないのです。そこで仏教は、今不幸だと思っている人にも、今幸福だと思っている人にも、悟りを目指す必要性を説くのです。

私達は自分の人生に対して不満であり、不安も感じています。もっと良くなりたいといつも思っています。不幸になったらどうしようかと、幸せな時にも悩むのです。この苦しみから逃げ出したくても、自分の心が生み出すのですから、逃げられるものではありません。しかしお釈迦様の教えを学び、仏教の悟りを目指すだけでも、これらの不満や不安から少しずつ離れられるのです。こんな有り難い話は聞いたことがないでしょう?

正しいお釈迦様の教えを学んでいくことは、苦しみ、不安、不満のこの世の中から抜け出す、唯一の道です。この道は、堂々と元気に明るく生きる勝利の道であり、苦しみを自力で乗り越えようとする賢者の道なのです。

これからの若い人は、二十一世紀に生きているのですから、見えないものに縛られてはいけません。
見えないものの力を信じることは、洗脳であり、非科学的な思考です。私たちには科学的、論理的、客観的な観察力が必要です。
そうすると、服も、食事も、電気も誰かのお蔭、他の生命のお蔭で、私達の手に入ることが見えてくるのです。私達の幸せは、他の生命のお陰でなりたっているのであり、見えない神、仏が幸せにしてくれている訳ではないのです。
何を信じるかは、その人の自由ですが、これから論理的な思考を育てようとしている若い人は、法力や霊感、助けてくれる神や仏は、信じない方が良いのです。
非科学的である、マインドコントロールをされているということは、立派な大人にとって、致命的なレッテルとなります。
正しい仏教では、見えない生命の存在も否定はしませんが、それに頼ることもしません。
指一本動かすのも、誰かが仕向けたのではなく、自分自身で命令して実行するのでしょう?

例えば、手に捕まえているバッタを放したら、どこに行くと思いますか?
ボールならば、科学的に、どのくらいの力で、どの方向に投げたら、どのような空気抵抗が働くので、どこまで届きますといえますね。

しかし、バッタを投げても、どこに行くか全くわからないのです。

真っ直ぐ投げた方向に飛ぶか、反対に投げた本人の顔めがけて飛んでくるか、ポトッと落ちたきり動かなくなるか、手にしがみついているか、それは誰にも分からないのです。


生命の動きは、誰の予言も当たりません。人も同じです。何をするのかどう生きるのか、それを決めるのは自分自身です。これからの若い人々には、堂々と、科学的・論理的に動いて、ご自身の幸せをご自身の手で掴んでもらいたいと思います。

私達の身体も感覚も記憶も、何かをしたいという衝動も認識も、すべてが瞬間瞬間変化していますね。
自分のすべてが無常なのです。また、自分の外の世界もすべて無常ですね。この世の中はすべてが変化し続けています。
この無常の論理を利用してより幸せになっていく為に一番大切なのが観察型瞑想です。
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